カルフォルニア、サンタクルツで1964年に結成し、当初は「ザ・ティキス
The Tikis」という名前で活動していた。
メンバーはテッド・テンプルマン(リード・ヴォーカル、ドラムス)、ディック・スコパトーン(リード・ヴォーカル、ギター)、エディ・ジェイムズ(リード・ヴォーカル、ギター)、ディック・ヤント(ヴォーカル・ベース)の4人。
1965年、当時ボー・ブラメルズやモジョー・メン、ヴェジタブルズなどが所属していたサンフランシスコのレーベル、オータム・レコードと契約。しかし1965年暮れに諸事情によりオーナーのトム・ドナヒューがレーベル経営を断念、オータムはワーナー・ブラザーズに買い取られることになる。「ザ・ティキス」も、ボー・ブラメルズやモジョー・メンと共にワーナーへ移籍。新しくワーナーのプロデューサーとして就任したばかりのレニー・ワロンカー(当時25歳)が、「ザ・ティキス」改め「ハーパース・ビザール」の担当となった。
ヴォーカル面を強化するためにボー・ブラメルズのジョン・ピーターセンが加入。ハーパースとしてのデヴュー曲「59番街橋の歌(フィーリン・グルーヴィー)」が1967年2月にリリース、3月には全米13位にランクされるヒットを記録。急遽アルバムの制作が決定た。
レニーの要請でレオン・ラッセル、ヴァン・ダイク・パークス、ランディ・ニューマン、ペリー・ボトキンJrらが集められ、ファースト・アルバム「フィーリン・グルーヴィー」が制作された。「ハーパース・ビザール」という名もヴァン・ダイクのアイデアだったと言われる。
その後解散する1970年までの3年間にアルバム4枚、シングル15枚をリリース、ユニークなバーバンク・ポップス・サウンドを創り上げた。
70年の解散後、テッド・テンプルマンはワーナーのハウス・プロデューサーとしてドゥービー・ブラザーズ、リトル・フィート、ヴァン・ヘイレンなどを手掛け、その後ワーナー・ブラザーズの副社長に就任。
1976年にはディック・スコパトーンがメンバーを集め(テッド・テンプルマンはプロデューサー業で多忙な時期だったため不参加)、リユニオン・アルバム「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を発表した。
僕にとってハーパース・ビザールの軌跡をたどることは、ヴァン・ダイク・パークスからリトル・フィートやライ・クーダーまでをつなぐバーバンク・サウンドの探訪と、ほぼ同じ意味を持っています。僕なりの“ディスカヴァー・アメリカ”の試み、といえば伝わりやすいでしょうか。それが同時に、“ソフト・サウンディン・ミュージック”の洗練を究めていこうという僕の音楽趣味に拍車をかけてくれたことも、どれほど感謝していいかわかりません。ハーパース・ビザールの名作群の紙ジャケットによる復刻を心より祝福します。―― 橋本 徹 (SUBURBIA)